集中
中井久夫の『徴候・記憶・外傷』を読んでいる。
鷲田清一との対談では、次から次へと横文字の哲学者、詩人が引用されるがほとんどついていけない。
一瞬、自分の無知を恥じ、急いで読まなければ、と思うが最後は自己嫌悪に陥るのは目に見えている。これまで何度も同じ動機で本を買ってはそのままにしてきた。
無知を認識することと無知をどうにかしようとするのは別だが混同してしまう。いつも同じだと思う。
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文章を読んでいると、集中力の変化に気づく。どのタイミングでぐっと集中が深まるのか、集中がどうやって薄れていくのか。薄れていくとともに、ただぼんやりと文章を眺めるような状態になっている。
ハッとさせられるフレーズに出会った時、意識が醒める感じがあって、そこから文章が集中して読めるようになる。今日でいうと、
中井「スナップ写真でも、好意を持っている人が映すと非常にきれいに写ります。」
鷲田「ええ、犯罪者は全部犯罪者に見えますものね。」
という部分だった。こういう身近な表現に出会って意識が醒めるのは、その次の瞬間から、今まで気にせず流していたことに意識を向けるようになるからだと思う。
そういう文章にはなかなか出会えない。
すでに感覚的にわかっていることを言葉で上手く言い表されていると、なるほどと思う納得感がある。我が意を得たりという気持ちで、誰かににその本を薦めたくなる。
ハッするときは違う。
感覚的にはわかっていないが、言葉で書かれているのを読むと、「そうかもしれない」と思うことがある。何かを理解する予感がする。
そういう予感というのが、自分にとっては大切なのだと思う。まだ登っていない高い場所から、梯子が降ろされてくるような。もうすでに上にいる人が、見える景色を説明してくれるので、登る前から梯子を登った後の景色を見たような気になる。
その予感を抱えて過ごす日常は、それ以前とは少し違ったものになる。
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とはいえ、今回の本は内容がなかなか理解できず、すぐぼーっとしてしまう。
ハッと意識が醒めて、集中して文章を読んでいるのは数ページだけで、すぐに漫然と読むようになってしまう。
漫然と文章を読んでしまっていると、時間を無駄にしたような気になる。もう少し良い姿勢で本を読めないだろうか。
読んでいる時の意識の変化、姿勢は、自分の文章と似ていると思った。
文章を書きたくなるときというのは、何か発見があったときだ。しかし、発見で終わって、発見が持つ意味とか、背景とか、そういう分析にまでは至らない。
ぱっと見つけた発見、それと一緒に出てきたアイデアを提示しては捨て、提示しては捨て、を繰り返す感じだ。そのためどうしても表面的で、浅い文章になる。
発見をする。アイデアが浮かぶ。すぐに浮き足だってしまうのではなく、その瞬間に留まって、時間を過ごすようにしたいと思う。なかなかそれができない。