p4c(=philosophy for children)スケッチ

p4c(=philosophy for children こどものための哲学)に取り組む「アトリエ はちみつ堂」の活動を通じて考えたことを記録していきます。

感動

ヴァレリー( http://amzn.asia/9Mh0ztb  )を読んでいる。その中で、ある詩人と最後に交わした言葉を振り返るシーンがある。

例年より早めに到来した夏が黄金色に染め始めていた平原を、わたしに指さした。<見てごらん、あれは、秋のシンバルが大地に打ち下ろす最初の一撃なんだよ>と彼は言った。

思い出を振り返りながらヴァレリーは最後の一文をこう締めくくる。
秋がきたとき、彼はもういなかった。
達人たちの美しいやり取りだ。言われなければ全くつながりを見出せないような言葉だが、いざ並べられると納得してしまうところが達人の所以だと思う。単なる過剰や、奇をてらった装飾とは似て非なるものだ。
 
 
最近、「p4cノート」というのを作って子どもと交換日記のような取組を始めた。最初のやり取りでは自己紹介を書いてもらった。紹介文の中にこんな部分があった。
自分の心は弱いです。ただ、最近は弱い心を受け入れるようにしています。なぜなら、弱い心は受け入れてもらえなくて暴れているのだと思ったからです。 
ヴァレリーマラルメと10才の男の子。みな、忙しさに追われて同じ言葉の繰り返しになりがちな日々に、風穴の開くような感動をもたらしてくれる。

嘘に出会うことがある。人と話すとき、耳を通じて互いに言葉を交換しているが、相手が話す言葉より、語られていない方の言葉が伝わってくる時がある。表面的に発される言葉とは違うところに、話し手の意図や思惑が感じられる。人は本当に様々な嘘をついている。冷たく、悲しくなるような嘘もあれば、可愛らしくて面白いものもある。ただ、子どものつく嘘には、どんなものであっても愛嬌を感じる。

 

ある男の子と、友だちの間で何が流行っているかが話題になったことがある。漫画やアニメ、カードゲーム、色々あるが中でも漫画の「ワンピース」が流行っているそうだ。彼は、漫画にはほとんど興味がなく、キャラクターも全く知らない。主人公が男?らしいけど、その名前も知らないんやで!と強調して言った。その一言を聞いて、自分の中にいくつか浮かぶイメージがあった。人とは違う自分でありたいと思う気持ち、早熟な自分への自負、あるいは家庭のルールに由来する不自由さへの寂しさ。当たっているものもあるだろうし、ぼくの勘違いもあるだろう。思い浮かんだイメージを大切にしながらも、囚われないように会話を続けた。

 
嘘をつくのは、人間だけなのではないだろうか。ふとそんなことを思う。最近、BBCが制作したドキュメンタリー「planet earth」シリーズを見ている。海、砂漠、草原、洞窟・・・さまざまな環境を1回1回特集し、それぞれで生きる動物が紹介されていく。自然のスケールの大きさ、生存競争の厳しさ、緻密な生態系のバランス。抗いようのない、ごまかしようのない大きなリズムの中で生きる動物たちの姿に引き込まれる。番組を見終わって、言葉を交わしながら、生きていくためにいくつもの小さな嘘を積み重ねる人間の在り方を思った。
 
子どもと話していて出会う嘘に、心を動かされることがある。友人、兄妹、教師、様々な人間関係が子どもたちを取り巻いている。それらの関係がいつも温かく優しいものとは限らない。初めて出会う社会に適応するための重要な技術が、嘘なのかもしれない。子どもの嘘には、ごまかしの向こうに真意が透けて見える素直さがある。同時にこれから先、長い時間をかけて出来上がっていくであろう硬直の兆しもある。あの男の子は、どこかで思い切って漫画に手を伸ばす日がくるかもしれない。タイミングを逃して生涯漫画に触れないかもしれない。今はまだ、どちらにも振れることのできる柔らかさがある。
 
様々な経験を積みながら、柔らかくあり続けることは難しい。それは、身も心も柔らかいと思っていた子どもでさえそうなのだ。それでも、子どもの硬くも柔らかい嘘に触れると、人にはこのような可能性があるのだと教えられる。

秘密

5年生の男の子と一緒に勉強をしている。いつも勉強を始める前に雑談をしていて、一昨日は友だちと遊んだ話をしていた。彼は時々「それは企業秘密やわ」と言って黙ることがある。その秘密は、昨日遊んだ子の名前だったり、何人かで作った秘密のクラブ活動のクラブ名であったり、友達同士で使っているコードネームだったりする。「それは秘密」という言葉は新鮮に響いた。彼のお母さんから秘密クラブやコードネームの話は聞いているが、そのことを彼は知らない。せっかくの秘密なのだから自分からは言わない方が良い気がして黙っていた。

 
 
 自分は小学生の頃、「秘密」という言葉にこだわる方だった。小学2年生の時、仲の良かった友人が転校することを内緒で教えてくれた。絶対に誰にも話してはいけないと決意した覚えがある。それからしばらくして、ぼくの母親を含む3人で車に乗る機会があった。話してもよいと判断したのか、その子が転校の話に触れた。母親に秘密にするには苦労していたので、これで秘密から解放されると少しほっとしたのだが、意外なことに、母親は転校のことを知っていた。親同士では話が回っていたのかもしれない。また、他の友人たちの話を聞いていると実は話が広まっていたり、友だちには秘密にしていても親だけには話していたということが分かって拍子抜けした。「秘密」の受け止め方が自分だけおかしいのだろうかと不思議な気分になった。少し、腹が立つような感じにも似ていた。
 
中学生になってからは、他人の秘密だけでなく、自分の秘密に対しても厳しくなった。自分だけしか知らないこと、自分だけが考えていることが山ほどあるような気がしていた。自分の気持ちを他人に悟られるのは恥ずかしいと思っていた。今でも、そういうところはある。
 
 
話を戻すと、秘密だと言いながらも、話せる部分については色々と教えてくれた。話が深まってきたタイミングで「そういえば他の子の名前はなんていうんだっけ?」と軽く聞いてみると、あっさりと教えてくれた。

彼と勉強が終わった後、自分が今日勉強したことをお母さんに話したいから帰り道ついてきてほしい、と言われて家まで送っていった。帰り道は日も暮れて暗くなっており、空にはいくつか星が見えた。家につくころには、彼は勉強したことを話すよりも、自分が見つけた星について話すことに一生懸命になっていた。お母さんが出てきても星のことばかりで、教室で勉強した内容をどうやって話すか用意していたのは全部どこかへ行ってしまったようだった。
 
彼を見ていると、秘密にこだわって頑なになることや、事前に決めたことに縛られる窮屈さに気づかされた。もちろん、守らなければならない秘密はあるだろうし、事前に決めた予定には従った方がよい。だが、いつもそうとは限らないだろう。
 
別れ際、お母さんとはまた別の話で盛り上がっているようだった。話題は何か分からなかったが、男の子の声がだんだん遠ざかっていくのを感じながら帰り道を歩いた。何か柔らかいものに触れ、自分の抱える頑なさが和らいだような気がして、気持ちの良い夜だった。

5/11(金),5/12(土)ワークショップのご案内

素材にこだわりを持って活動している自然食レストラン「ばんまい」のオーナー山田さんとの出会いをきっかけに、 レストランのとなりにあるスペース「くるみ堂」をお借りし、実験的な試みとして、2日連続のワークショップを開催することにしました。
 
大人向けのワークショップです。子どもたちと同じことをするのではなく、体を動かしたり、質疑応答を繰り返すことを通じてp4cへの理解を深めたいと思っています。
 
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但し、まずはじめに断っておかなければならないと思っていることがあります。それは、今回の取組は一般的なp4cのイメージとしての「複数人で車座になり、毛糸で作ったコミュニティボールを使って対話をする」とは異なったワークショップになっているということです。
 
また、このワークショップとp4cのつながりが見えず、「p4c」の名前を使うことに違和感を持つ方もいるかもしれません。もしかするとその違和感はその通りかもしれません。僕自身にとっても実験的な試みであり、確信を持っているわけではありません。
 
こうした背景があることをお伝えしたうえで、ワークショップについての説明に入らせていただきます。
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p4cの重要な概念に「セーフティ」(「身体的、感情的、知的に大丈夫だと思えるか」)があります。セーフティであるために重要なことは、自分自身の緊張に注意を向けることです。このセーフティについて考えたいと思って企画したのが今回のワークショップです。
 
大きく2つのことに取り組みます。1つ目は、合気道の訓練法に倣って体を動かしながら自分自身の緊張に注意を向ける練習をします。2つ目は、自分自身の緊張に注意を払いながら、話を聞く練習をします。
 
 
【内容】
5月11日(金)、5月12日(土)の2日間続けて行います。
金曜日は体を動かすことを中心に、土曜日は話すことを中心にします。どちらかだけに参加いただくこともできます。
 
金曜日は、合気道の稽古で行う呼吸法をいくつかお伝えします。例えば、息を吐いて吸うことに加え、手を上げ下げすることで自分自身の緊張に目を向けていきます。その後、他人と組んで行う訓練(呼吸合わせ)を行います。1人で動いている時とは違う感覚に意識を向ける練習をします。時間があれば、実際に2人組になって会話をするロールプレイを行おうと思います。
 
土曜日は、金曜日のワークショップで緊張に注意を払う感覚を意識しながら話を聞く練習をします。二人一組になって、一方が聞き役、一方が話し役になります。話す方は何を話しても構いません。上手く話すことが見つからなくても構いません。話す人はそれを聞きます。参加者で順番にこれを繰り返していきます。自分の順番が回ってくるまでは、話す人、聞く人を見る人になります。見る時にどれだけ発見ができるかがこのワークショップでは大切になります。
 
【詳細】
■日時:5月11日(金)、5月12日(土)19時~21時ごろ
※開始15分前から会場を開けています。
■会場:くるみ堂
「ばんまい」(大阪府池田市鉢塚3丁目15-5A )の隣にある長屋の2階になります。※ばんまいまでの道順(http://teshigotoya.org/pg31.html
■定員:5名
■参加費:場所代を参加人数で頭割りします。500円程度になります。
■お申込み方法:Facebookでメッセージか、菱田(ikoma707@gmail.com )までご連絡ください。
■必要なもの:飲み物をお持ちください。
※軽い運動をするので、喉が渇くかもしれません
■服装:動き易い服装でいらしてください。着替えのスペースもあります。
 
質問、不明点などがあれば菱田(ikoma707@gmail.com)にご連絡ください。

質問

近くで開かれている子ども食堂のイベントに参加した。知り合いや、顔を見たことがある人が何人かいたが、会話が盛り上がっていたので遠巻きに眺めていた。

 
たまたま近くにいた年長~小学1年生くらいの男の子がじっとこちらを見ていたので「どうしたの?」と声をかけ、それからしばらく話した。知らない大人と話す緊張感と興味が、表に出たり引っ込んだりを繰り返している感じだった。どう声をかければ空気が変わるのだろうかと思っていたが、気づくと男の子が手に持っていたミニオンのキャラクターが描かれたボールを指さして「それは何?」と聞いていた。「これはミニオンっていうんだよ。」そう言ってミニオンについて説明する様子はそれまでと少し違っていて、僕と男の子の間にあった緊張感がふっと緩んだ感じがした。
 
それからしばらくして、男の子は一緒に来ていたお母さんを探しにいった。
 
手に持っているものについて聞いた時の僕は、キャラクターがミニオンだと知っていて、ミニオンに関する答えが返ってくると予想をしていた。しかし、彼はそれを知らなかっただろう。僕自身が会話の先を見据えて話していたのに対して、彼は今この瞬間の会話のことだけを考えていたように思う。
 
質問に対してどんな答えが返ってくるのかなんとなく知っていて、それでも質問をすることがある。そういう時は相手もそれを察していて、共同作業で予め台本に決められたようなやり取りをなぞっていく。そのようなコミュニケーションが必要な場面もあるのかもしれない。
 
しかし、下手な台本をなぞっていくのはあまり気持ち良いとは思わない。男の子とのやり取りを振り返ると、自分自身の会話を軽んじる姿勢に対する不快感があった。どういう答えが返ってくるか予想がつくのであれば、それは聞く必要がないだろう。また、予想を立てて質問する時は、自分の予想が正しいことを相手にも求めるようなニュアンスが漂ってしまう場合が多い。そうなると、質問は独りよがりの要求へと形を変えてしまい、よりいっそう厄介なことになる。

靴を買った。歩き方に問題を感じていて、少しでも改善すればよいと思って購入した。

 

足についての理解を深めるためにも、足形の計測をした上で適切な靴を紹介してもらいたいと思い、そういったサービスのある店を調べてから梅田に向かった。最初に入ったのは、梅田で一番新しい商業施設に入っているスポーツブランドショップだった。全体的に白を基調とした店で、空間が広く使われていて中に入るのに少し緊張感があった。
 
その店は足形計測に加えて歩行分析のサービスもあり、最新の設備がそろっているようだった。ただ店員と話していると最低限の答えしか返ってこず、ある程度の知識を前提としているようだった。確かにその店は、どちらかというと高品質のランニングシューズに特化しており、自分が求めていたのは初心者向きのウォーキングシューズだった。自分は店の顧客として相手にされていないと感じ、店を出た。
 
その後、地下街にあるアシックスのショップに行き、青色でスニーカータイプのウォーキングシューズを購入した。店構えも普通だったのであまり期待していなかったが、足形の3D計測をして靴を紹介するサービスがあり、セミオーダーメイドの中敷きの提案もあった。計測の結果は、A4の紙1枚にまとめられていた。
 
自分では幅広だと思っていた足幅が実際は平均以下であること、踵の角度が内側に傾いていることを知った。 前々から足の内側が崩れてX脚気味になっていると感じていたが、計測のおかげで裏付けができた。なんとなく感じているのと、事実として知るのでは、体の感覚に変化が起こりそうな気がする。また、もし今回の計測をしなければ、自分はずっと足が幅広な人間だと思い込み続けていたのだと思う。
 
以前、あるドキュメンタリーで化学調味料に体が反応してしびれが出るという人に、実際には無添加の有機野菜のみを使用した料理を出したにも関わらずその人は体のしびれを主張した、という場面を見た。番組の狙いは、人間の感覚は思い込みに左右されるので当てにならないと伝えるもので、製作者の意図がはっきり伝わってきた。
 
登場する人々が、製作者の意図を伝えるための道具としてのみ扱われているように感じられ、あまり好きな演出ではなかった。しかし「自分の素朴な感覚」に対して警戒を忘れてはならないと思うには十分な番組だった。その「感覚」は思い込みによって生み出された幻覚かもしれない。
 
中敷きの調整を待つ20分くらいの間、幅広だと思い込んでいた自分の足を眺めながらその番組のことを思い出していた。そのうち調整が終わり、50代前半くらいの物腰の柔らかい男性の店員が靴を持ってきてくれた。靴を履くときに、ポケットから小さな靴履きを出して踵を入れる手助けをする様子がとても手馴れていた。
 
靴に足を入れると足底の感触がはっきりとしていて、試しに歩いてみると床との距離が近く感じられた。それまで履いていた靴を使って感覚を研ぎ澄まそうとしても、この感触には至らなかっただろう。努力に対して盲目的になっていた自分の必死さを思った。

一言

月に2回、武道の稽古に通っている。稽古前に床にマットを敷く必要があるため、早くに来れる人で準備をしている。以前は準備から参加していたが、最近は準備に間に合わない日が多く、後ろめたさを感じていた。昨日の稽古では、いつもより早く道場に着いた。部屋に入ると、先生が一人で座っている。

挨拶をすると、先生は

 

「誰も来ないからどうしようかなと思ってたのよ」

 

と言った。その瞬間、先生を待たせてしまった申し訳なさと、これまで感じていた後ろめたさがオーバーラップして強く動揺した。動揺すると何か口にしなければいけないと思い込んでしまう。あるいは、場当たり的な言葉を口走る。昔からそうだった。

 

「すみません、用事があってなかなか早く来れなくて、、、すみません、、」

 

咄嗟に出てきた一言だった。先生は、気にしなくていいよ、とだけ言った。その後すぐに他の人が道場に入ってきて、準備作業が始まった。準備をしながら、発した一言への後悔をずっと引きずっていた。どうして自分はあんなことを言ったのだろうか。声は弱々しく、語尾は小さかった。言葉を発していながら、言葉を相手に聞き取って欲しくないと思う気持ちがそうさせたのだろう。


聞かれてもいない言い訳を口にする時がある。言い訳だけではない、言う必要のないことを並べ立ててしまう。謝罪や感謝や配慮、表面上は様々だ。しかし、「相手に悟られないよう、自分の疚しさをなかったことにしたい」と思う欲は共通している。自分が相手に及ぼしているであろう影響を想像し、自分の都合の良い方向に誘導したり、取り除こうとしている。

 

しかし、自分の行動や発言が他人に何らかの影響を及ぼすとき、その影響の判断は相手に委ねられている。許すかどうか、不快かどうか、喜ばしいかどうか、そもそも気にもとめないかもしれない。それらは僕が決めることではない。本人以外の人間が、本人の感じ方を誘導することは気持ちの良い行為ではない。自分の一言に含まれた欲の卑小さが感じられて、気分が落ち込んだ。

 

準備が終わり、稽古が始まる。二人一組になって技を掛け合ううちに、上半身、特に肩の周辺に詰まりが感じられる。技を掛けられるとき、自分に伝わってくる力の流れを感じて、受け身を取る直前まで相手とのつながりを保とうとする。型が体に馴染んでおらず、考えばかりが先行して体の動きがついてこない。先生から声がかかり、必死でついていこうとしているうちにあっという間に稽古が終わる。帰り道、道場に入ったときの感覚を思い出しながら、他にどんな言葉があっただろうかと考えながら帰り道を歩いた。