p4c(=philosophy for children)スケッチ

p4c(=philosophy for children こどものための哲学)に取り組む「アトリエ はちみつ堂」の活動を通じて考えたことを記録していきます。

質問すること

p4cは、子どもを頭でっかちで理屈っぽくするだけではないか、と心配する声を聞いた。そうではない、と言いたい気持ちもあるが、色々と論拠をあげて説得しようとしても、距離が広がるだけではないかと思う。説得しようとするのではなく、p4cを巡る様々な出来事を、描き出したいと思うようになった。 
 
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p4cでは、たくさんの質問に出会う。例えば、最初に自己紹介をするとき、毛糸を巻きながら「最近あった面白かったこと」や「好きな食べ物」について話す。話し終わったあと、隣に座っている人が、話してくれた人に、なんでもいいから質問をすることにしている。
 
なんでもいいから質問してみよう、と言われると難しい。その日のテーマは、休みの日に何をしているか、だった。大人の参加者が「何にもしないようにしている」と言う。隣に座っていたのは小学1年生の女の子。「何にもしない、をする」の意味がよく分からなかったのだろうか。それでも、何か質問をしようと必死に考えて、困っている様子だった。その必死に考える様子を見ていると、簡単に「こういう風に聞いてみたら?」と助け舟を出すことは、かえって彼女に失礼なように思えた。相手の努力を台無しにするであろう一言を言いかけて、こらえる。時間が流れる。どうしたらいいのか、焦りが募るが、焦りから発された言葉は相手を急かすだけになってしまうから、苦し紛れに「なんでもいいよ。今話してくれた内容についてでなくてもいいから・・・」などと、できるだけ邪魔にならないような言葉をかける。
 
「・・・どんな服を着てるの?」ふっと、女の子が喋りだす。質問の内容はどうであっても構わないのだ。人がある話をして、その話に対して質問が生まれる。質問からまた新しい話が生まれる。
 
グルジア音楽学者であるジョーゼフ・ジョルダーニアは『人間はなぜ歌うのか?』 で、地球上に存在するあらゆる種の中で、人間だけが「質問」をすると書いている。そして、問いを投げかける能力によって、脳を開かれた自己発達するシステムにすることができたという。「質問する」行為は、ぼくたちの知性の起源であり、普段の何気ない会話の中でも、ぼくたちはその起源に触れ続けることができるのだ。
 
しかし、p4cで数々の「質問」に出会ううちに、果たして自分は「質問」しているのだろうか?と思うようになった。質問することは、世界を知ろうとする行為だ。しかし、ぼくにとっては、そうではない質問ばかりに思われる。むしろ、知るためではなく、自分の世界をより閉鎖的に、強固なものにして、自分の殻に閉じこもろうとしているかのように思う。
 
単に自分自身を大きく見せるため。自分自身の持っていきたい話題に誘導するため。自分の意見に同調してもらうため。相手の意見を否定するため。質問の形をとってはいるが、どれも質問とは言えないだろう。自分がしていた質問が、実は「質問」でなかったことに気づく。一方で、せっかくの質問を引っ込めてしまうこともある。そんなことも知らないのか、と馬鹿にされるのではないか。恥をかくのではないか。相手に変に思われてしまわないか。場の空気が読めないとレッテルを貼られてしまうのではないか。周りを気にする不安から次々と質問を消していってしまう。
 
そのどちらかを繰り返す以外にないのだろうか。その繰り返しから抜け出す方法を探している。