p4c(=philosophy for children)スケッチ

p4c(=philosophy for children こどものための哲学)に取り組む「アトリエ はちみつ堂」の活動を通じて考えたことを記録していきます。

とほほ主義

子どもと向き合うのは週に1回、1時間程度でしかない。できるだけその時間を充実させたいという思いから、色々と本を読んでいる。本を読んでいると考えが広がっていき、学問への親しみも影響してか、関係の薄い専門書を読んでいたりする。

 

専門書ともなると一読しただけで分かる箇所は皆無で、行ったり来たりしながら1ページ1ページと少しずつ進んでいく。そうした読書体験は、学生時代、コンプレックスを刺激されて手に取った専門書を読み進める時間とは、似て非なるものだ。当時は、周りの友人たちがそれぞれの専門に向かって真っすぐに進んでいくのを見て、焦っていたのだった。

 

知識を仕入れたからといって子どもと過ごす時間が充実した時間になるかというと、もちろんそうではない。だからといって、知識が不要だというのではない。ただ、本を読んで学んだことがすぐに活きるというよりは、長い時間をかけて、思ってもない形で、ふとした時に役に立つ場合が多い。

 

そういう実感があるからか、本を読む時の意気込みが変わってきたように思う。「ほどほど」を大事にしたいと思うようになったのだ。それは、自分程度では全ての内容が分かるはずもないという、少し寂しい「諦め」の感覚を伴っている。

 

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かつて、内田先生から「とほほ主義」という話を聞いたことがある。人間、「とほほ」くらいの心持ちでいたほうが何事もそれなりに上手く取り組めるのではないか、という話だった。「俺はこれができるんだ!」といった全能感に支配されている人間ほど危険なものはない。よかれと思ってした行動が結果的に事態を悪化させることもある。もちろんやる気はあるが、実際何かに取り組むとなると不測の事態も色々と発生するわけで、あまり自分の実力を過信せず、それなりに謙虚さも持ち合わせましょう、といったありふれた話だ。

 

子どもたちと一緒に時間を過ごして、何を伝えたいかと言われると、p4cと銘打っている以上、論理的思考・ケア的思考・創造的思考などが公式的には挙げられるのだろう。しかし、根っこのところでは、僕はこの「とほほ」、もっと簡単に言ってしまえば「ほどほど」の感覚が伝わりさえすればいいかなと思う。(もしかすると、これが一番難しいのかもしれないが。)

 

自分の意見を言えるのはよいことだが、四六時中、自己主張ばかりするのもどうかと思う。時には、発言を控えて聞き手に回るのも大事だろう。問題が起こった時に話し合う時間は大事だが、なんでもかんでも話し合えば解決するわけでもはない。時には、先送りにしてしまうことも1つの手かもしれない。相手の意見に耳を傾けるのは大事だが、体調が悪い時、1人になりたい時は話を打ち切って立ち去ることがあってもいいだろう。

 

ここでいう、「発言するかしないか」の程度の調整というのは、大抵「生活の知恵」的なものであって、あまり声高に主張できるものではない。この程度が良い、と公式化できるものでもない。(あくまで、「生活の知恵」レベルなのだから。)それでも、こういった「生活の知恵」的感覚を持った名もなき人々こそが、この社会を下支えしているような気がするし、そうした小市民は、次第に減っているように思う。

 

なんでも「ほどほど」に。「ほどほど」とはいってもこれだけは、というこだわりが出てくる場合もあるだろうし、そういう時は思い切って「やりすぎる」のもありだろう。毎日、ポストに放り込まれている様々な習い事のビラが、「~力が身につく!」と煽り立てるのを見るたび、そうした文句に対する反発の気持ちも相まって、うちは「とほほ主義」でいこう、と決意を新たにするのだった。

 

3月のスケジュール

3月のスケジュールです。

 

会場は、新しい教室(大阪府箕面市瀬川)です。

対象は、小学1年生~高校生です。

 

子どもの哲学については、私が参加している「p4c-japan」のHPをご覧ください。

http://p4c-japan.com/about_concept/

学校での活動ではありませんが、コンセプトは同じです。

 

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■子ども哲学
とき:3月10日(土)
・15:30~16:30
・18:30~19:30

参加費:1000円
参加方法:お名前、学年、電話番号を記入の上、ikoma707@gmail.comまでご連絡ください。

 

■子ども哲学
とき:3月17日(土)

・15:30~16:30
・18:30~19:30
参加費:1000円
参加方法:お名前、学年、電話番号を記入の上、ikoma707@gmail.comまでご連絡ください。

 

■子ども哲学
とき:3月24日(土)
・18:30~19:30

参加費:1000円
参加方法:お名前、学年、電話番号を記入の上、ikoma707@gmail.comまでご連絡ください。

 

■子ども哲学
とき:3月31日(土)
・15:30~16:30
参加費:1000円
参加方法:お名前、学年、電話番号を記入の上、ikoma707@gmail.comまでご連絡ください。

 

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アトリエ はちみつ堂

菱田伊駒

最近のp4c(テーマ「いじわる」)

p4cの活動を、経験したことのない人に伝わるような方法がないか考えている。今回は、活動日誌的に書いてみる。

 

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 2月24日土曜日

今日のテーマは、「いじわる」。小学1年生の「みずいろ」さんと一緒に考えた。

 

最初に僕からみずいろさんにこんな手紙を用意していたので、一緒に読むところから始める。

 

みずいろ さんへ

こんにちは、今日話し合い、聞き合いたいと思っていることについて書きます。 
今日、いっしょに考えてみたいのは、「いじわる」です。
ぼくが2年生だったとき、クラスのなかでとてもいじわるな子がいました。
ものを隠したり、仲間はずれにしたり、たたいたり、いやなことをたくさんされました。
きらいな人がいるなら、話しかけたり、ちかづいたりしなかったらいいのに、と思いました。きらいなら、一緒にいないほうがたのしいんじゃないでしょうか。
なかのよい人と一緒に遊んでいるほうが、たのしいはずなのに、と思いました。
 
とりあえず、最初は、「いじわる」をスタートに、話し合ってみましょう。

 

毛糸を巻きながら、自己紹介と最近のあったニュースの発表。僕は、最近地元のバレーボールチームの練習に参加したことを話す。メンバーのレベルがとても高かったこと。久しぶりに思いっきりバレーをしたこと。一所懸命に頑張るが上手くいかない、それはそれで面白かったこと。体中筋肉痛で動きが鈍くなってしまったことを話す。

 

みずいろさんは、最近のことではないが、コマを回せるようになったことを話す。お母さんに教えてもらって、コマが回せるようになったこと。コマをひっくり返して回せるようになったことなどを話す。最近、学校であった発表を頑張ったこと。知ってる人の前でならそんなに緊張しないこと。僕は人と話すと緊張して顔が赤くなってしまって困っていたよ、と言うと、そんなこと自分にはないと言う。緊張して顔が赤くなるのは、漫画の中だけだと思っていたそうだ。

 

コマ、と聞くと、自分の名前に「コマ」が入っていることを言いたくなり、話す。お互いの漢字を書いて、それぞれの漢字が他にどんな使われ方をしているか言い合う。

 

それから、今日のお題である「いじわる」について話す。自分の小学校であった「いじわる」の話をして、そのことについての感想を聞くところから。友達と遊んでるほうがよっぽど楽しいのに、どうしていじわるをするんだろうね、と聞くと、「いじめるほうが楽しいからじゃないの」とあっさり。

 

それから、お互いの身の回りでいじわるをする人を具体的に挙げてみる。4人くらいの名前があがる。それぞれどんないじわるをするのか黒板に書いていくと、種類が色々あるね、という話になる。(悪口を言う、ばかにして笑う、仲間外れにする、など。)

 

じゃあ、いじわるをする人の特徴を色々と出してみようか、ということになる。

 

・嫌なことをいう

・たたく

・大切なものをだめにする

・仲間はずれにする

・うそをつく

・いじわるだとわかっていなくていじわるする

・むしする

 

くらいがあがる。こういう特徴があるけど、どれが一番イヤだろうね?ということでランキングをつけることにする。

 

1位:大切なものをだめにする

2位:たたく

3位:仲間はずれにする

 

そこまで順位をつけたところで、「大切なものをだめにする」に何重も線を引いたので、この大切なものはなんだろうね?と聞く。そうすると、大切なものは

 

・名前

・たからもの

・家族

・友達

・いいくつ

 

の5つくらいがあがる。名前にこだわりがあるのは、幼稚園のとき、2個下の子にみずいろさんが自分の本名を言ったところ、大笑いされた経験があるからだという。この例は、いじわるをする特徴であげた「いじわるだと自覚していない」パターンに当てはまるとのこと。相手は、名前がみずいろさんにとって、とても大切なものだとわかっていなかったと思う、と話す。

 

大体ここまでで1時間近くたっていたので、最後にクイズゲームをして遊ぼうかということになる。黒板を消していると、急に「でも、結局言いたかったことは・・・」と言い出す。

 

結局言いたかったのは、いじわるをしてくる具体的な1人に対しては、同じようにいじわるをやり返している、ということ。それで、相手が「こんなんされてたんならイヤやな、やめよう」と思ってくれたらいいのに、と。分かってくれそう?と聞くと、わからん、と。

 

その後は、あるものを上から見たらどう見えるかを当てる「上からみたらなんでしょうクイズ」と、特定の単語をごちゃごちゃに組み合わせて書いて、もとの単語がなんだったかを当てる「ひらがなごちゃまぜなんでしょうクイズ」をする。大体10問ずつくらいクイズを出し合って、そこで時間が終わる。

 

ここには書いていない、通りいっぺんにしてしまった質問がいくつもある。「どうしていじわるをするんだろうね?」とか、「いじわるをする人はどんな気持ちなんだろうね?」とか、「大切に思うってどんな気持ちだろうね?」等々。それらはほどんど空振りで終わった。

 

集中

中井久夫の『徴候・記憶・外傷』を読んでいる。

鷲田清一との対談では、次から次へと横文字の哲学者、詩人が引用されるがほとんどついていけない。

 

一瞬、自分の無知を恥じ、急いで読まなければ、と思うが最後は自己嫌悪に陥るのは目に見えている。これまで何度も同じ動機で本を買ってはそのままにしてきた。

 

無知を認識することと無知をどうにかしようとするのは別だが混同してしまう。いつも同じだと思う。

 

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文章を読んでいると、集中力の変化に気づく。どのタイミングでぐっと集中が深まるのか、集中がどうやって薄れていくのか。薄れていくとともに、ただぼんやりと文章を眺めるような状態になっている。

 

ハッとさせられるフレーズに出会った時、意識が醒める感じがあって、そこから文章が集中して読めるようになる。今日でいうと、

 

中井「スナップ写真でも、好意を持っている人が映すと非常にきれいに写ります。」

 

鷲田「ええ、犯罪者は全部犯罪者に見えますものね。」

 

という部分だった。こういう身近な表現に出会って意識が醒めるのは、その次の瞬間から、今まで気にせず流していたことに意識を向けるようになるからだと思う。

 

そういう文章にはなかなか出会えない。

 

すでに感覚的にわかっていることを言葉で上手く言い表されていると、なるほどと思う納得感がある。我が意を得たりという気持ちで、誰かににその本を薦めたくなる。

 

ハッするときは違う。

 

感覚的にはわかっていないが、言葉で書かれているのを読むと、「そうかもしれない」と思うことがある。何かを理解する予感がする。

 

そういう予感というのが、自分にとっては大切なのだと思う。まだ登っていない高い場所から、梯子が降ろされてくるような。もうすでに上にいる人が、見える景色を説明してくれるので、登る前から梯子を登った後の景色を見たような気になる。

 

その予感を抱えて過ごす日常は、それ以前とは少し違ったものになる。

 

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とはいえ、今回の本は内容がなかなか理解できず、すぐぼーっとしてしまう。

 

ハッと意識が醒めて、集中して文章を読んでいるのは数ページだけで、すぐに漫然と読むようになってしまう。

 

漫然と文章を読んでしまっていると、時間を無駄にしたような気になる。もう少し良い姿勢で本を読めないだろうか。

 

読んでいる時の意識の変化、姿勢は、自分の文章と似ていると思った。

 

文章を書きたくなるときというのは、何か発見があったときだ。しかし、発見で終わって、発見が持つ意味とか、背景とか、そういう分析にまでは至らない。

 

ぱっと見つけた発見、それと一緒に出てきたアイデアを提示しては捨て、提示しては捨て、を繰り返す感じだ。そのためどうしても表面的で、浅い文章になる。

 

発見をする。アイデアが浮かぶ。すぐに浮き足だってしまうのではなく、その瞬間に留まって、時間を過ごすようにしたいと思う。なかなかそれができない。

 

目標

なれないと分かっていても、この人のようになりたいと思うことがある。

 
思ってしまうのは仕方ないので、そういう時は徹底的にのめりこむしかないと開き直ることにしている。自分が変わっていくためには、「先生」のような存在が必要なのだと思う。
 
先生だったらこういう時、何と言うだろうか。人と話しているとき、後ろに先生が立っていたとして恥ずかしい振る舞いをしていないだろうか。書いた文章を先生に見せることができるだろうか。
そんなことをずっと考えている。
 
 
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どうして誰かに憧れたり、自分以外の人間になりたいと思ったりするのだろうか。自分の場合を考えてみる。
 
 
今のままではいたくない、という、自己否定的な感情がいくらか含まれている。この感情をバネに変化に向かってゆくことはできるが、それが強すぎるとあまりよい変化にならない。
 
 
先生の話し方、聞き方、書き方を知ることで「人にはこのように振る舞える可能性がある」と思うことができる。
 
自分がそのようになれるかは別として、可能性を事実として知っているだけで、自分自身や人との付き合いが変わっていく気がする。

先輩の公開論文審査会に参加した。今日経験した出来事は、これから先、何度も振り返ると思う。

 

ある人が質問をした。内容としては「どうやっても聞こえない声がある。そういう声とどう付き合うか」というようなものだった。それを聞いた時、反射的に自分の中に生まれたのは反感だった。

 

質問者は、どのような意味で「声」という言葉を使っているのだろうか。授業のあとにとるアンケートに記載された、もはや気持ちの残りカスのような、虚ろな文字の羅列だけを指しているのではないか、そんな思いが生まれた。

 

実際に質問者がどのような意図で発言していたのか、その瞬間から全く耳に入ってこなかった。その時から、僕は「聴く」を手放していた。

 

その後、僕は挙手をして、質問をした。何を話したか、ほとんど覚えていない。ただ、瞬間的に感じた反感を、その人に直接手渡さず、発表者に質問をする形で表現しようとした。

 

もちろん、上手くいくはずはなく、発表者にも失礼な発言になり、「こんなこと言いたいわけじゃないんだ」という思いだけがぐるぐると頭の中で回り、途中で打ち切られるような形で発言は終わった。

 

反感が生じる前に、何らかの単語につられて感情の発作が起こったのだと思う。その発作を見つめて、横に置いて、そのまま質問者の声を聴き続けることができなかった。

 

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別の先輩が、川端康成の『片腕』の表現を引いて文章を書いていた。

 

あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。

 

という部分が引かれていた。

 

自分の中で、様々なことが起こっている。声が耳に入る、単語の意味を解釈する、解釈に引きずられて眠っていた記憶、感情が浮き上がってくる。そういうものを見つめていると、言葉も自然と引きずられて出てくる。

 

その結果が、他人にとって突拍子もない形であったとしても、本人にとっては必然的な形であればよいのだと思う。必然的な形をとったとき、「嘘ではない」といえるのだと思う。

 

生きている時間、言葉をやりとりする時間のうち、どれだけ「嘘ではない」と言える言葉に出会えるだろうか。それを自分の口から発することができるだろうか。

 

もしかすると、それは今の自分が思う「言葉」の形をしていないかもしれない。

 

掃除

日曜日は、丁寧に掃除をするよう心掛けている。朝起きて、まず寝具一式に布団掃除機をかける。その後、はたきで部屋のホコリを落として、床を掃く。掃除機をかけ、クイックルワイパーで床を拭いて、その後水回りの掃除をする。

 

右利きなので、掃除機やはたきを持つ手はほとんどが右手になる。そのせいか、一通りの掃除が終わった後に右手が疲れる。意識して左手に持ち替えたりするもするが、やはり右手の方が疲れる。

 

もともと面倒くさがりな性分なので「早く終わらせたい」という気持ちがあったのだろう。「丁寧に掃除をしよう」と意気込んでいたが、そうでもなかったのかもしれない。

 

今日はたまたま、時間も気にせず、ぼんやりと掃除していた。作業の流れも決まっているので何も考えず体を動かしていた。物を持つ手はほとんどが右手だったが、左右の疲れの違いは気にならなかった。掃除が終わったあとの右手の疲れがいつもより軽かった。

 

知らず知らずのうちに、自分の考えの癖が緊張を生み出し、身体を固めていく方向に動いてしまっている。その癖を1つ1つ解いていきたいと思う。