p4c(=philosophy for children)スケッチ

p4c(=philosophy for children こどものための哲学)に取り組む「アトリエ はちみつ堂」の活動を通じて考えたことを記録していきます。

先輩の公開論文審査会に参加した。今日経験した出来事は、これから先、何度も振り返ると思う。

 

ある人が質問をした。内容としては「どうやっても聞こえない声がある。そういう声とどう付き合うか」というようなものだった。それを聞いた時、反射的に自分の中に生まれたのは反感だった。

 

質問者は、どのような意味で「声」という言葉を使っているのだろうか。授業のあとにとるアンケートに記載された、もはや気持ちの残りカスのような、虚ろな文字の羅列だけを指しているのではないか、そんな思いが生まれた。

 

実際に質問者がどのような意図で発言していたのか、その瞬間から全く耳に入ってこなかった。その時から、僕は「聴く」を手放していた。

 

その後、僕は挙手をして、質問をした。何を話したか、ほとんど覚えていない。ただ、瞬間的に感じた反感を、その人に直接手渡さず、発表者に質問をする形で表現しようとした。

 

もちろん、上手くいくはずはなく、発表者にも失礼な発言になり、「こんなこと言いたいわけじゃないんだ」という思いだけがぐるぐると頭の中で回り、途中で打ち切られるような形で発言は終わった。

 

反感が生じる前に、何らかの単語につられて感情の発作が起こったのだと思う。その発作を見つめて、横に置いて、そのまま質問者の声を聴き続けることができなかった。

 

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別の先輩が、川端康成の『片腕』の表現を引いて文章を書いていた。

 

あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。

 

という部分が引かれていた。

 

自分の中で、様々なことが起こっている。声が耳に入る、単語の意味を解釈する、解釈に引きずられて眠っていた記憶、感情が浮き上がってくる。そういうものを見つめていると、言葉も自然と引きずられて出てくる。

 

その結果が、他人にとって突拍子もない形であったとしても、本人にとっては必然的な形であればよいのだと思う。必然的な形をとったとき、「嘘ではない」といえるのだと思う。

 

生きている時間、言葉をやりとりする時間のうち、どれだけ「嘘ではない」と言える言葉に出会えるだろうか。それを自分の口から発することができるだろうか。

 

もしかすると、それは今の自分が思う「言葉」の形をしていないかもしれない。