p4c(=philosophy for children)スケッチ

p4c(=philosophy for children こどものための哲学)に取り組む「アトリエ はちみつ堂」の活動を通じて考えたことを記録していきます。

繊細

ぼくの奥さんは繊細で、日常を取り巻くちょっとした出来事に心を浮き沈みさせている。ここでいう繊細とは、身体的にも精神的にも、である。あらゆる現象に対しての繊細さだ。

 

今朝の支度をするとき、洗面所に2人で立つと、床がたわむことに気づいた。毎日の気圧の変化に体調が左右される。ニュースを見ていて、暗い話が多いとすぐにチャンネルを変える。急いでいるときに、誰かが転ぶ場面に出くわすと、それを見過ごしてしまった罪悪感をずっと引きずる。実際、10年以上引きずっている。会社で、近くの人たちが険悪な雰囲気だとそれに影響されるのを避けるため、お手洗いに席を立つ。

 

同僚と簡単に交わす言葉、友人とのメールのやりとり、街中ですれ違う人やBGM、電車の人混み、ありとあらゆる刺激が身体を通過していく。そういうときは、イヤホンをして感覚を遮断し、進む方向だけを見て一心不乱に歩く。本人にしてみれば物心つくころから経験し続けている。当たり前の経験で、これから先も同じだ。

 

いつも話を聞くたびに、繊細さは優れた観察眼、洞察力を持ち合わせていることの結果なのだと思う。他の人には見えない、聞こえない、感じない、そういうシグナルを拾うことができる。拾い上げた結果として、不都合が生じる場合が多いのかもしれないが。

 

よく人を見ている。学生時代、コンビニで働いていたときは、1人1人の客の細かい仕草や特徴をよく覚えていて、未だに電車に乗ったときにその時の客を見つけては、「あの人、うちのコンビニに来てた。こうこうこんな人だった」と教えてくれる。

 

自分も見習いたいと思う。話す、聞く、よりもっと前にまず見る行為がある。 目の前にいる人をただ、見ること。それを意識するようになってから、人と話していると、ぼんやりとその人に「触れている」感覚があると気づいた。どのくらい触れているのかは、その時々によって違う。雲をつかんでいるような、全く触れていない感覚になる時もある。

 

目の前の人を見るといったが、触れている感覚が強い時は、今この瞬間の目の前にいる相手の姿以外を感じる時もある。発言の1つ1つから、相手が生きてきたこれまでの時間、その時間の中にいる昔のその人の姿を感じる。あるいは、これからどうなっていくのか、変わっていく未来の相手の姿を感じる。

 

ぼくの頭の中の幻想かもしれないと思うが、相手の存在の重さを感じられたような気がして嬉しくなる。