歩く
妻と石橋から万博公園まで歩いた。歩くときは、自分の足の裏の感覚を確かめながら歩くようにしている。最近、歩き方が変だと指摘されるまで全く気付いていなかったが、自分の歩き方には強い癖があると知った。20数年間、無意識に歩いて作り上げたパターンを変えるのは容易ではない。歩き始めは、踵の裏、母指球、指など色々と意識するポイントを変えて観察するようにしているが、10分もしないうちにぼーっと歩いている。また少し意識を足に戻す。
懇親会から
昨晩、合気道でお世話になっている人たちを教室に招いて懇親会をした。石橋に戻ってきてから4年、昨日を迎えるまでに思った以上に時間がかかった。
その間、公民館やカフェ、友人と借りた物件、そして自宅、と場所を移ってきた。活動の内容も変わった。変化のタイミングごとに、その時々では最良の判断をしていると思っている。そのためそれぞれのタイミングで先生たちを呼ぼうとするが、準備をしているうちに色々な事情が重なって断念してしまう。その繰り返しだった。事情というのは、仕事の忙しさや体調、気分の問題といった大したものではなかった。
それまでやっていなかったことに取り組む時には、それなりのエネルギーがいる。意識しなくても、ふっとそのエネルギーが湧いてくる時がある。合気道を始めようと思ったときがそうだった。大学4年生の時、偶然まとまった時間がとれるようになり、自然と稽古場に足が向かった。見学をしたその日のうちに入門を決めていた。
一方で、前々からやろうと思っていたり、自分には必要だ、やるべきだと意気込んでいる事ほど取り組めない。手をつけられたとしても、続かなかったり途中で終わってしまう。義務感はかえって体が動くのを妨げてしまい、動けない自分に対する後ろめたさを助長するだけになる場合が多い。
できることはできるし、できないことはできない。今振り返ると、昨日を迎えるまでにかかった時間は長くも短くもなく、自分と周りの用意が整うために必要な時間だったと思う。
しかし、1年前の自分に「今の君にはできないことをやろうとしている」と言ったとしても、受け入れられないだろう。いつの自分にとっても、”今”がベストなタイミングだと思っていた。気負いや焦り、不安がそう思わせるのだと他人には感じられても、本人はそう思ってはいない。少しでも深呼吸をして、自分自身の状態に目を向ければ気づくことはあるだろうが、それができない。
苦しむこと
初めて会った最初の時から、考えることを楽しんでいる子どもに会うことがある。そういう子が口にする疑問は、その子が普段生活している環境からふっと浮かび上がってくるような自然さがある。授業で目立つため、先生に良く思われるため、そういう力みが一切ない。問いについて話す口調は、好きな食べ物を聞かれて答えるときの話ぶりと変わりがない。彼の問いは、空腹なときに自然に食欲が湧いてくるのと似ている。
自分が初めてp4cに取り組んだ時、出会った男の子はそんな子だった。それから付き合いがはじまってもう2年になる。
その子が、土曜日に「自分の周りはロボットばっかりだ」と言った。どうして宿題をしなければいけないのか、どうして先生は怒るのか、勉強は何のためにするのか、そうやって考えるのは自分だけで、周りの友だちは疑問に思うことはないらしい。疑問を口にしても分かってもらえない。最近、そう思うことが多い、と。「ぼくはタコかもしれない」と彼は続けた。色んなことを考えてみたい、やってみたい。でもそれは自分だけなのではないかと思う、と。
これまで、彼の口から周囲との関係についての言葉を聞くことは少なかった。自分が考えていることを楽しく話すことが中心だった。学年が上がって周りとの関係が意識されるようになり、その関係のなかで葛藤する彼のありように触れたような気がした。
p4cでは、「不思議に思う心を大切に」を掲げている。問いかける、話す、答える、誰かと一緒にそうするのはかけがえのない時間だと思う。しかし、疑問に思うことで葛藤や苦しみを招いてしまうがある。そもそも、疑問に思わないことで日常を過ごせている面もある。今日眠ると明日目が覚めることを疑う人はほとんどいない。健康、友だち、家族、学校、仕事、疑問に思うことが日常に支障をきたす場面は多い。それでも、不思議に思わないおかげで自分の暮らしが回っていると思うからこそ、疑問を持つことができる数少ない瞬間を貴重だと思わずにはいられない。
彼がこれからどう葛藤と向き合っていくのか。出会うもの、見るもの、考えること、そういった1つ1つを丁寧に一緒に感じていきたいと思う。
書くこと
書いた文章を読み直してみると、自分には攻撃的なところがあるなと思う。そういう時はしばらくほったらかしにして、時間をおいてからもう一度同じ内容について書くようにしている。昨日あった出来事についての書き直し。
昨日は、自分の活動にもう少し言葉を加えて他人の理解を得たいと思い、参考にしようと思って色々な教室のサイトを見て回っていた。英語教室、プログラミング教室、ヨガ教室、体操教室・・・本当にたくさんの習い事が子どもたちの周りにはある。
サイトに書かれている文章には色々は種類がある。大企業のホームページのような、洗練されているけれど書き手の顔が全く見えない文章は読んでいても魅力を感じない。(欲しい商品を選ぶような感覚の読み手からすれば、この手の文章はとても分かりやすいが。)あまり大きくない教室や、教室の主催者が解説を書いている場合は書き手の顔が見えてくる。しかし、書き手が見えるというのは恐ろしいことでもあると思う。
必要以上に活動のメリットを挙げたり参加者の声を延々紹介しているようなサイトは、書き手の自信のなさを感じる。自信がないからこそ、相手を説得してかかるような書き方やへりくだった書き方になってしまうのだと思う。自分にも覚えがある。どちらにしても、読み方を誘導されているように感じて窮屈な気分になる。
他人の理解を得たいと思って書いた文章は、理解されたいという「欲」が感じられる文章になるだろう。そのような文章は、不特定多数の人に向けて書くべきではない。だからといって、その欲を抑え込もうとしても奥歯に物が挟まったような言い方になり、不自然な文章になるだろう。
書くという行為は、何かを隠すことには向かない。直接向き合って話す以上にその人の未熟さが露呈してしまう行為なのかもしれない。
雰囲気
阪大で月一回開催されているワンコインコンサートに行った。ロマン主義の曲が4曲演奏され、中でも、最後の曲が印象的だった。パンフレットを見ると、その曲は「ラフマニノフの前奏曲集 作品23」、解説には「ロマン主義が目指した人間の感受性の表出に成功している」とあった。
1曲の演奏時間が長く、演奏中に次第に日が暮れていき、窓から入る夕日の光が演奏するピアニストの背中を照らしていた。曲の雰囲気と相まって幻想的な光景だった。演奏者は若いイタリア人で、才能あふれ前途有望な若者という形容がぴったりくるような男性だった。
演奏中、携帯電話の着信音が会場に鳴り響く場面があった。演奏者が少しだけ鳴るほうを気にしたように感じられた。他にも、観客のいびきが気になった場面もあった。入場料が安いことが、観客の雰囲気にも影響しているのだろうか。ピアノのコンサートに来る機会があまりないから判断しにくいが、少し、空気が緩いような気がした。
コンサートが終わった後、以前から気になっていた居酒屋に入った。この界隈にそぐわない洒落た雰囲気が作られていて、店員さんもその店と同じように洒落ていた。何かが足りない気がした。しかたなく笑顔を貼り付け、働くのが面倒くさいと感じているようにも見えた。そう思い始めると店の料理も、なんだか味気なかった。
その店を出た後、近くの馴染みの居酒屋に場所を移した。いかにも大衆居酒屋という雰囲気で、煙草の煙が漂っていた。出てくる料理が盛り付けられている皿は、家庭で使うようなものだった。アサリのバター焼きとたこぶつを注文した。食べ終わった貝の殻を横によけていると、店主が申し訳なさそうな笑顔で、空の皿を差し出した。
コンサートと居酒屋2つ。それぞれの雰囲気があった。どれも、各場所を取り巻く要素によって、必然的に決まっている雰囲気のように感じられた。
耳
何かに失敗して、後悔で一杯になっている時は、周りの声がどんどん聞こえなくなっていって、自分1人の考えに閉じこもっていくような状態になる。また、そういう時は、閉じこもっている自分に気づいていない。
周りの声に耳を閉ざしている人は、本人は気づいていなくても周りからだと一目瞭然である場合が多い。言葉を交わしていても上の空で、返事にも感情がこもっていない。こちらの言葉が受け入れられていない。
昨日高石さんの講座に参加した自分は、まさにそのような状態だった。自分が上手くいかなかったp4cの経験を思い出して、どうすれば良かったかを話した。相手が色々と質問をしてくれているのに、その言葉には耳を傾けず、ただ「上手くいかなかった」という後悔に浸っていた。何度か「具体的にはどんな場面だったんですか?」と聞かれて、ようやく実際の場面を振り返りながら話せるようになった。
実際の場面を振り返ることができた時、自分が考えていたのは失敗の場面ではなく、もっと違う、妄想の世界だったと気づいた。自分1人の考えに閉じこもっていて、現実について考えている振りをした現実逃避だった。もしここで逃避だと自覚できずにいたら、同じ失敗を繰り返していたと思う。
失敗した時、次はもっと上手くやりたいと思う。そのためには失敗した記憶の中に入っていって、誤った選択をした自分と向き合い、他にどんな選択があったかを考える必要がある。考えるというより、その時の緊張や感情を思い出して、他に違った方法が浮かんでくるのを待つと言った方がよい。
p4cをしている時も、終わった後に振り返る時も、いつでも必要になるのは「耳」だと思う。目の前で話している相手の声に耳を澄ませる。相手の声に反応して、自分の中に浮かんでくる声に耳を澄ませる。振り返りの時間は、自分1人でやろうとしない。あの先輩だったらどう言うだろうか、あの先生だったらどうか、と他人の声を聞こうとしてみる。
耳がふさがっているときに、聞こえた気になっている声というのはなんだろう。後悔や失敗から逃れたいと思って生み出された、幻聴のようなものだろうか。